シューベルト『冬の旅』第2曲「風見」~風見の腹話術?

シューベルト『冬の旅』第2曲です。今回から特に新しい話もない予定だったのですが、またちょっとしたネタが出来ました。三人称で書かれている第二連を、若者ではなく風見が屋根の上で嘲っている言葉と解釈したのです。ご意見頂ければ幸いです。

 シューベルト:歌曲集『冬の旅』~第2曲「風見」


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

甲斐
2008年01月14日 09:21
今回の訳は、ヒュッシュやホッターの歌うようなものを想定していますので、わりと堅めにしてあるのですが、こんなのもいいかもしれません。

風が風見を弄ぶ
可愛い彼女の家の屋根で
血迷った僕は思い込んだ
惨めな逃亡者を口笛で追うのかと

奴はもっと早く気づくべきだったな
家の上に掲げられたこの標(しるし)に
そうすりゃはなから探さなかったろうよ
この家の中に淑女の鑑など

風は中の人の心も弄ぶ
屋根の上でのように だが音も無く 
誰が僕の苦しみなど気にかけるものか
あの人達の子は金持ちの花嫁なのだ
2008年01月14日 09:31
言葉の選び方は好みなのでコメントしませんでしたが、私はこちらの柔らかいほうが好きです。堅いと、どうしても明治時代の昔の翻訳を思い出してしまうので。
フランツ
2008年01月14日 14:22
甲斐さん、間髪入れずの第2曲も興味深く拝見しました。
第2節は確かにichからerに変わっていますね。
ここは第3者的な詩人の視点から若者に向けたコメントのように受け取りました。でも、pfeifenの内容とかWahneの延長とも取れるように詩人はうまくぼかしているのではないかという気もします。
この若者が「神」や「風」のせいにして、恋人を直接責めないというのは確かにおっしゃる通りでこれは結構重要なポイントのような気がしました。失いたくないけれど、言葉にすると失ったことを認めてしまうので、あえて触れないというような心理状態も一つの可能性としてありそうですね。
other_wind
2008年01月14日 19:07
第二連はおっしゃるとおり三人称ですね。今気付きました。
対比としてお聞き下さい。私が聴く主人公は、心変わりした今の恋人には、もうピリオドを打っています。しかし愛を誓ったその時は真実だったはず。その想い出の中の恋人を大切にしたいのです。だから繊細な主人公は誰にも打ち明けず「おやすみ」と書いてそっと出て行った。拒否された現実が夢であってほしいという願いだけがむなしく残ります。
娘=家=町=共同体という図式もありうると思います。彼が愛し、愛されていると思っていたのは、娘であり、その母であり、家=町=共同体であったでしょう。よそ者としてここに来て、結婚し、地域社会との帰属を固めたかった。やはり人は心変わりするもの、信じられないのだと。失恋を通してますます疎外感を募らせる。重層的な解釈もいいのかなと思います。”風”はいけませんね。
甲斐
2008年01月14日 21:18
>Autyさん
ありがとうございます。掲載した方はいまひとつわかりにくいので、この方が良さそうですね。もうすこし工夫して改訂してみます。

>フランツさん
なるほど、そういう解釈もあるのですね。とにかくわざわざ三人称で書かれているからには、主語を省略して単なる若者の恨み言にしてしまう以外の工夫が欲しいですね。主語を「この哀れな流れ者は」にしている訳は見たことがあります。英訳で参照した3種は"He"になっていました。

>other_windさん
「拒否された現実が夢であってほしいという願いだけがむなしく残ります。」これは美しい解釈ですね。「おやすみ」には何であるにせよ、空しい願いが込められているように思えます。それにしても憎きは「風」(?)。詩には書かれていないけれど、若者自身もその場で風に弄ばれている、とは言えますね。
ルリマツリ
2008年01月14日 22:43
ドイツ語はわかりませんが、詩を読んでの感想を書き込ませていただきます。
第三連ではのところで >これは娘の心が風に弄ばれたから心変わりしたというのであって、その移り気を風のせいにしているのだと思います。 とありました。
そうですね。娘が心変わりしたのは決して彼女が悪い訳ではなく「風のせいだ」と思いたい若者の気持ちがよくわかります。
『軋む風見』の詩を挙げてくださいましたが、風見から他の詩を思い起こすのはステキな事です。風景をみたり、何かの出来事があった時に歌や詩を思い出すのはすばらしい事ですね。
「風見」が風によってくるくる回る音はギシギシより『カラカラ』という軽快な音のイメージを持っていました。『カラカラ』と聞こえたにしても、この若者には自分をあざ笑っている、からかっているかのように感じたことでしょう。
甲斐
2008年01月14日 23:39
>ルリマツリさん
コメントありがとうございます。訳詩のみを読まれたご感想も大歓迎です。日本語として自然になっていることは、訳として大切ですので。
わたしの読み取った若者の心理に共感してくださって嬉しく思います。
ヘルダーリンの詩の引用も、本題に関係ないことなのでどうかとも思いましたが、お褒めの言葉を頂いて安心しました。
ヘルダーリンの詩のあの部分は、カラカラと訳された例もあるのですが、字面上そこが軽くなってしまうと思い、考えた末「軋む」にしました。カラカラよりももっと耳障りな音のイメージが欲しかったからでもあります。

この記事へのトラックバック