シューベルト:『冬の旅』(4)~「氷結」:「凍りついたような」か「死んだような」か

HPの更新に時間がかかりそうなので、とりあえずここに本文を貼ります。ご意見いただければ幸いです。

4. Erstarrung

Ich such im Schnee vergebens
nach ihrer Tritte Spur,
wo sie an meinem Arme
durchstrich die grüne Flur.

Ich will den Boden küssen,
durchdringen Eis und Schnee
mit meinen heißen Tränen,
bis ich die Erde seh.

Wo find ich eine Blüte,
wo find ich grünes Gras?
Die Blumen sind erstorben
der Rasen sieht so blaß.

Soll denn kein Angedenken
ich nehmen mit von hier?
Wenn meine Schmerzen schweigen,
wer sagt mir dann von ihr?

Mein Herz ist wie erstorben,
kalt starrt ihr Bild darin:
schmilzt je das Herz mir wieder,
fließt auch ihr Bild dahin.

4.氷結

雪の中に空しく探す
あの娘の残した足跡を
彼女が僕の腕にすがり
そぞろ歩いた緑の野で

この大地に口づけし
僕の熱い涙で
氷と雪を融かしてやりたい
土の地面が見えるまで

一輪の花さえなく
緑の草もないのか
花々は死に絶え
芝草はなんと色褪せ

ここから思い出のよすがは
何も持ち出せないのか
苦しみが口を閉ざした時
何が彼女のことを語ってくれる

死んだような僕の心には
彼女の面影が凍りついている:
この心が再び融ける時
その姿も流れ失せる



「凍りついたような」か「死んだような」か

シューベルトは『冬の旅』で何箇所かミュラーの原詩に変更を加えていますが、この曲で問題になるのは第5連第1行の"erfroren(凍った)"を"erstorben(死んだ)"に変えたことです。

ミュラーの原詩:

Mein Herz ist wie erfroren,
Kalt starrt ihr Bild darin:

凍てついたような僕の心には
彼女の面影が凍りついている:

フィッシャー=ディースカウは著書『シューベルトの歌曲をたどって(1971)』で、この部分をミュラーの原詩に戻す事が許される箇所としており、1972年のムーアとの二度目の録音から"erfroren"に直して歌っています。そのムーアも、著書『シューベルトの三大歌曲集(1975)』で、これはシューベルトが急いで書き写したための誤りであり、”erstorben”では意味がおかしくなってしまうというシューベルト研究家リチャード・カペルによる説を紹介し、それを支持しています(ムーアの著書はフィッシャー=ディースカウとカペルに献呈されています)。手持ちのCDではシュライヤー、シュトゥッツマン、トレケル、ゲーハーエルなども"erfroren"にして歌っていました。

しかし御大の見解にたてつくわけではありませんが、いくら急いで写したからといって、シューベルトがわずか5連の詩の中で”erstorben”のような目立つ言葉を二度使うことを不審に思わず、しかも読み違えを後になっても気づかなかったという仮定は、どうも説得力に欠けるように思えてならないのです。そこで逆に、この変更が意図的なものであると仮定してその理由を考えてみました。

シューベルトによる天才的なアイデア、疾走する悲しみの音楽によってこの詩に親しんできたわたしたちは、この詩を読むと、取り乱して雪の野を駆け巡る若者を思い浮かべます。しかし虚心に詩だけを読んだらどうでしょう。一つ前の『凍った涙』に比べて特に歩みを速めた形跡はないように思うのですが。

今は雪に覆われた思い出の地で空しく彼女の足跡を探し、悲しみにくれながら思い出のよすがを求めるものの、雪の中に見出したのは枯れた花々と色褪せた芝草のみ。過酷な現実に愛の終わりを思い知らされた若者は、いつか自分の苦しみが癒えた時のことを思う。この詩の後半で若者はやや冷静になっており、現実を見つめているようにも思います。

しかし『冬の旅』を一貫した深刻な精神の危機の物語として捉えるには、旅が始まったばかりの段階でこんな生ぬるいことを言ってもらっては困ります。第1~第3連の、思い出の春の緑野→現実の荒涼とした雪景色→掘り出された死んだ花、という強烈な視覚イメージ、胸の張り裂けるような苦しみを音楽で表現し切ったシューベルトですが、その音楽は後半部分で正気を取り戻しかけたようなミュラーの原詩との間に温度差、指向のずれが起きているように思います。この変更はそれを修正するための処置ではないでしょうか。

「凍ったような」ならその箇所の前後関係としては自然ですが、いつかは融けることが期待できる「凍った」では生ぬるいとシューベルトは感じ、より強い表現の「死んだ」に変えたのではないでしょうか。そしてこの語が同じ詩の中で既に使われているのは、その前後関係の意図的引用として読んでみるべきでしょう。"Die Blumen sind erstorben"「花々は死に絶え」。雪の下に埋もれて凍りついた枯れた花。愛の思い出の変わり果てた残骸。それは春に雪が解けたら生き返るでしょうか。氷が解けて流れるだけで死んだ花は死んだままです。それは自らの死と、それによる娘への愛の消滅をも暗示しているようにも思います。それがあえてerstorbenを二度も使った理由であるならば、この変更は原詩の腰砕けを修正するための、シューベルトらしく控え目ながらも実に巧妙な改変であると言えると思います。

(2008.1.28 甲斐貴也)

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この記事へのコメント

2008年01月29日 17:06
甲斐さんはドイツ詩を探偵みたいに調べて、正確なイメージをふくらませようと努力しておられるのですね!
other_wind
2008年01月30日 18:41
どうなんでしょうね。
書き写しの誤りなのか、意図的な変更なのか、興味がわきますね。
私も詩を良く読んでみます。
フランツ
2008年02月02日 10:19
「温度差、指向のずれ」を修正するための語の変更という甲斐さんの説、なるほどと思い拝読しました。いつもながら詩を深く解読される甲斐さんと共に私もあらためて詩と向き合う機会を得て楽しんでいます。
さて、おっしゃる通りにシューベルトが意図的に変更したという可能性と同時に、速筆のシューベルトがパソコンの無い時代に行を見間違えて記してしまったという可能性もあります。ただ、おっしゃるように、「erstorben」と書いてもし不自然さを感じたら、校正の段階で修正することも可能だったわけで、もし最初はうっかりミスだったとしても、シューベルトは文脈の中でこの「erstorben」という語であっても不自然さを感じていなかったのでしょうから、やはりシューベルトが記した通りに「erstorben」で歌う方が作曲者の意図に近い気がします。
でもいろいろな解釈の「冬の旅」を聴けるというのはいい時代だなとつくづく思います。
今後の展開がますます楽しみです。
フランツ
2008年02月02日 10:22
一つ大事なことを言い忘れました。
今回の甲斐さんの訳詩、声に出して読んでもいいくらいとても素晴らしい出来ですね!余計な説明が一切なく、1篇の日本語詩としても通用しています。
甲斐
2008年02月03日 01:02
>Autyさん
考え過ぎとは思うんですが、自分なりに納得が行くまで考えたいものですから(^-^)

>other_windさん
少なくとも書き間違えたという証拠もない以上、erstorbenのままでいいと思うのですけどね。

>フランツさん
結局は結論の出ない話ではあるのですが、皆さんがそれぞれお考えになるきっかけになれば大変嬉しいです。
拙訳へのお言葉ありがとうございます。推敲の際、声に出して読んで語調を整えています。説明的になることを出来る限り避けるのも心がけている事です。訳文から意図を察していただき嬉しい限りです。
goethe-schubert
2008年06月22日 23:20
シューベルト:「僕の心は死んだよう」
私は今日まで、例の箇所はerfroren で歌うべきと思っていました。「心が再び溶けるなら」という詩句が "erstorben" では合わないからです。けれども改めてシューベルトの自筆ファクシミリに残された筆跡を見、その考えは「溶けて」流れていきました。当時、体力的にも経済的にも恵まれていなかったシューベルトは、2度の "Mein Herz ist wie erstorben"に自己を投入したのですね。

「凍った涙」と「氷結」は、韻律と脚韻形式が同じですから、詩の速度に関する甲斐さんの分析はお見事です。でも、「氷結」は第1-2節が、「僕」を主語にした1文で、次行へのアンジャンブマン(詩行のまたがり)が見られることから、「凍った涙」より「氷結」の方が速いと判断できます。

甲斐さんの着眼はすばらしいですね。世界のどこにこのような人がいるでしょう。国際的研究者や大演奏家にも勝る、甲斐さんの鋭い洞察力と深い解釈に恐れ入りました。すばらしいですね。私も脱帽し、大拍手です。

 
甲斐
2008年06月23日 00:16
goethe-schubertさん

やはり詩そのものの速度感は「氷結」が早いのですね。シューベルトの慧眼の伺われるところです。他の点へのご支持ありがとうございます。いささか照れくさいですが(笑)。今後もどうぞよろしくお願いいたします。

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