シューベルト『冬の旅』(8)「回想」~「ロメオとジュリエット」の引用?

8.回想

氷雪を踏みしめているのに
足の裏が燃えるようだ
あの塔が見えなくなるまで
息をつきたくない

石につまづきながら
街の外へと急ぐ
カラスどもが家々の上から
帽子に雪つぶてと氷片を落とす

何と違うもてなし様だったことか
移り気な街よ
お前の輝く窓辺では
雲雀と小夜鳴鳥が歌い競っていた

周りのリンデの樹は花咲き
澄んだ水路は明るくせせらいで
そして、ああ、あの娘のふたつの瞳が燃えていた
それもお前のしたことなのに、友よ

あの日のことを思い出すと
もう一度振り返ってみたくなる
彼女の家の前にまたよろめき戻り
黙って佇んでみたくなる

8. Rückblick

Es brennt mir unter beiden Sohlen,
tret ich auch schon auf Eis und Schnee,
ich möcht' nicht wieder Atem holen,
bis ich nicht mehr die Türme seh,

hab mich an jeden Stein gestoßen,
so eilt' ich zu der Stadt hinaus,
die Krähen warfen Bäll und Schloßen
auf meinen Hut von jedem Haus.

Wie anders hast du mich empfangen,
du Stadt der Unbeständigkeit,
an deinen blanken Fenstern sangen
die Lerch und Nachtigall im Streit.

Die runden Lindenbäume blühten,
die klaren Rinnen rauschten hell,
und, ach, zwei Mädchenaugen glühten,
da war's gescheh'n um dich, Gesell.

Kommt mir der Tag in die Gedanken,
möcht' ich noch einmal rückwärts sehn,
möcht' ich zurücke wieder wanken,
vor ihrem Hause stille steh'n.


もうかなり街から離れていると思うと、また街の中に現れたかのような詩です。ミュラーの原詩集での位置もほぼ同じ(「郵便馬車」が「リンデの樹」の次にあるので第9曲となる)。どうやらこの詩集の配列は必ずしも時系列に沿っていないようです。難しいのは第5連目最終行の"da war's gescheh'n um dich, Gesell."で、「娘に一目惚れした」「すべてがおじゃんになった」という訳もありますが、第四連と第五連は街を擬人化して、その手のひらを返すような仕打ちをなじっているものとして訳しました。

この詩について渡辺美奈子氏はその論文、「『冬の旅』の根底にあるもの~ヴィルヘルム・ミュラーのベルリン、ブリュッセル時代」(『ゲーテ年鑑第48巻』〔2006年・社団法人日本ゲーテ協会〕所収)において、「お前の輝く窓辺では雲雀(ヒバリ)と小夜鳴鳥(ナイチンゲール)が歌い競っていた」の箇所が、この恋愛が官能的なものであったことを示唆する表現としています。雄が一晩中夜明けまで愛の歌を歌い続けるナイチンゲールと、夜明けから歌い始めるヒバリが同時に鳴くのは夜明けに限られるので、その時間その窓のある部屋で若者と娘が共に過ごしたという暗示ということは十分あり得ると思います。

三宅幸夫氏は『菩提樹はさざめく』(春秋社)でヒバリとナイチンゲールのエピソードについて、「シェイクスピア『ロメオとジュリエット』の、朝の訪れを認めたくない恋人たちの対話『あれは雲雀ではなく小夜鳴鳥』を思い浮かべてもいいだろう」(同書100頁)としながら、その「トポス(詩における定型的表現)」はミュラーが研究していた中世のミンゼンガーに遡り、集合的無意識の領域に通じるものとしています。しかしこれを『ロメオとジュリエット』のその場面の引用と考えることは、この詩の解釈に非常に大きなヒントになるとわたしは思います。

それは第三幕第五場、共に一夜を過ごしたロメオとジュリエットの別れの場面。ジュリエットの部屋の窓辺に二人が現れ、今鳴いているのは朝を告げるヒバリではなく夜に歌うナイチンゲールだからとジュリエットがロメオを引き留ようとするものの、時を逸すれば敵方の館の中で命の危険にさらされることから諦め、二人の仲を裂くヒバリの声への恨み言を言います。具体的に描写はされずに、しかし明確に示唆されるている恋人たちの情熱的な夜を、ミュラーはこのさりげない引用によって示唆したのではないでしょうか。この引用により若者が恋人と深い仲で結ばれていたこと、その愛の思い出の忘れがたい甘美さが強く印象付けられ、女々しくも思われる、もう一度恋人の家の前に戻りたいという若者の諦めきれない気持ちに共感できるように思います。そして現実の雪の中のすさんだ情景との恐ろしいほどの落差。また、夜明け前に慌しく恋人の部屋を出なければならない状況が「おやすみ」そっくりであることは、明かされないその「前段」のヒントなのかもしれません。

ゲーテの代表作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(1796)』の主人公である巨匠ヴィルヘルムのモデルがウィリアム・シェイクスピアであることは言うまでもないことですが、ドイツではシェイクスピアのドイツ語訳は最高のドイツ文学とされると言われています。当時のドイツにおけるシェイクスピアの位置が、『シェイクスピア ヴィジュアル事典』(新樹社)に簡潔に記されているので引用します。

ヨーロッパ大陸でシェイクスピアを受け入れた最初の国はドイツだった。ゲーテ、シラーを始め、18世紀のドイツの作家たちが、それまで主流であったフランス新古典主義を打ち破るシェイクスピアの自然な文体と大胆な筋の構成を歓迎したのだ。さらに、イングランドでシェイクスピアをまだ第一に詩人として見ていた頃、ドイツの批評家たちは初めて彼を天才的な劇作家として評価した。19世紀初頭、アウグスト・シュレーゲルとルートヴィヒ・ティークが完成させたシェイクスピア作品の翻訳が決定版となり、ハイネやニーチェも認めるとおり、シェイクスピアはドイツの教育において中心的な位置を与えられた。ドイツでは今日まで、シェイクスピアは他のどの劇作家よりも広く読まれ上演されている。(同書467ページ)

(引用終わり)

その現在でもドイツの劇団が上演に用いているというヴィルヘルム・シュレーゲル(August Wilhelm Schlegel 1767-1845)独訳の『ロメオとユリア"Romeo und Julia" 』は1797年に出版されています。

例によって推測を長々と書きましたが、シューベルトの音楽が、この詩の思い出の甘美さと現実の陰惨さの恐るべき落差を、何の注釈も必要とせずに鮮やかに描き出して余すところがないことこそ、何よりも驚くべきことでしょう。
(2008.3.12 甲斐貴也)

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この記事へのコメント

other_wind
2008年03月14日 21:24
シュトゥッツマンとゼデルグレンで聴きました。
厳しい現実を表す怒りにも似た音楽に対して、美しい思い出はなんと甘美でロマンチックなのでしょう。
ドイツにおけるシェイクスピアの受容もこのころということですから、当時の様々なことが凝縮されているようですね。
ますます興味が出てきます。
それにしてもミュラーはたいへん教養のある興味深い人物ですね!
甲斐
2008年03月14日 23:24
コメント拝読してわたしもシュトゥッツマンのこの曲を聴いてみましたが、甘美な思い出の表現が驚くほど素晴らしいですね。こんなに細やかに、ひとつひとつの言葉に強弱やニュアンスを与えているのは類を見ない気がします。
シェイクスピアの引用は推測ではありますが、この場面は人気の高いところですし、シュレーゲルの独訳出版から30年近く経過した「冬の旅」が書かれた頃には既にドイツで広く読まれていたとすれば、当時の教養人にはすぐにピンと来る引用だったと考えられますね。
仰る通りミュラーという人物、知れば知るほど面白いですね。
ここまでのところ、ほとんどの曲はちゃんと筋が通った解釈が出来るのに対して、「おやすみ」の難解さ、謎の多さが際立っているように思います。やはり語るに語れない何かを秘めているのでしょうね。

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