シューベルト:『冬の旅』第19曲「幻惑」~自作オペラからの流用

19. 幻惑

光るものが僕の前を親しげに舞う
僕はその後について右往左往する
悦び従いながらもわかっている
それが旅人を惑わすものだと
ああ 僕のように不幸な者は
目も綾な罠に進んで身を任すもの
それは氷と夜と恐怖の向こうに
明るく暖かい家を見せてくれる
そしてその中に愛しき魂を・・・
僕が得られるのは幻惑だけなのだ

19. Täuschung

Ein Licht tanzt freundlich vor mir her;
Ich folg' ihm nach die Kreuz und Quer.
Ich folg' ihm gern und seh's ihm an,
Daß es verlockt den Wandersmann.
Ach, wer wie ich so elend ist,
Gibt gern sich hin der bunten List,
Die hinter Eis und Nacht und Graus
Ihm weist ein helles, warmes Haus
Und eine liebe Seele drin ――
Nur Täuschung ist für mich Gewinn.


「光るもの」とは何なのか。その姿と動きは鬼火そのものです。第9曲の「鬼火Irrlicht」は、ミュラーの原詩集ではこの曲の3曲後、「宿屋」の次にあります。「鬼火に誘い込まれて道に迷う」というモチーフが共通していますし、「喜びも苦しみも鬼火のゆらめきでしかない」「手に入るものは幻惑だけ」という諦観、ニヒリズムも共通します。

この曲では、シューベルトのつけた軽やかな曲が非常に印象的です。この旋律は、シューベルト自身のオペラ『アルフォンソとエストレッラ』からの流用であることが知られており、その内容は登場人物の王フロイラが王子アルフォンソに歌う「雲娘の歌Lied vom Wolkenmädchen」です。

これについては渡辺美奈子さんのHPに、引用部分を含む歌詞と作品の概要が掲載されましたので是非参照ください。
渡辺美奈子 『アルフォンソとエストレッラ』より「雲娘の歌」2008
http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/taeuschung.htm#froila

「雲娘の歌」の要約
ある狩人が野原で横になり物思いに耽っていると、夕映えに包まれた美しい娘が現れた。彼女は、山の上の黄金の城で彼女の友、僕(しもべ)になるように甘い声で誘う。狩人は娘について山道を昇り、彼女は踊りながら先導する。頂上に華やかな宮殿が現れ、召使たちがかしづき、狩人が娘を抱きしめようとすると、彼女は靄のように消え、城は青い空の中に消える。狩人は夜の闇と絶望の中、高みから奈落へ落ちていく。

流用部分のみの拙訳を掲載します。「幻惑」のはじめの4行にこの部分を移調した旋律が使われています。

Er folgte ihrer Stimme Rufen 
Und stieg den rauhen Pfad hinan; 
Sie tanzte über Felsenstufen, 
Durch dunkle Schlünde leicht ihm vor. 

彼は彼女の呼び声に従い
険しい道を登っていった;
彼女は岩の階段を舞い
暗い洞窟を通って軽やかに導いた

ご覧の通り、この前後の物語は「幻惑」の詩に酷似しており、流用部分は美しい雲娘の甘い誘いに喜び従う狩人の描写であって、決して暗い詩に明るい曲をつけて皮肉な効果を狙ったのではないことがわかります。それにしてもあまりにも似すぎてはいないか、とわたしなどは思うのですが、実はショーバーの台本によるこのオペラのスコアを、ミュラーが見ていた可能性はあるのです。

詳しくは渡辺さんのHPの記事をご覧頂きたいですが、1821年、自作のオペラ『オイリアンテ』上演のためウィーンを訪れていた作曲家ウェーバーをシューベルトは頻繁に訪ねており、ウェーバーの指揮で『アルフォンソとエストレッラ』を上演する約束を一時取り付けていました。ミュラーの方はウェーバーと更に親しく、ウェーバーはミュラーの台本によるオペラの作曲を計画していました(註)。そして『冬の旅』を含むミュラーの詩集『旅する角笛吹きの遺稿詩集 第2巻』は、ウェーバーに献呈されているのです。

直接的な証拠はないものの、ミュラーがウェーバーを通して読んだ『アルフォンソとエストレッラ』の台本から「幻惑」のヒントを得、「幻惑」に作曲したシューベルトがそれに気づいてか気づかぬか、そこに自分が作曲した音楽を流用したというのは、楽しい空想ではあります。

それにしても惜しまれるのは、ウェーバー(1786 – 1826.6.5)、ミュラー(1794-1827.10.1)、シューベルト(1797-1828.11.19)がそのあと数年内に相次いで亡くなってしまったことです。ミュラーは自分の詩にシューベルトが作曲したことを知ることなく亡くなったとされていますが、もし彼らがもう少し長らえていたら、直接の交流が生まれていたことは十分考えられるだけに残念でなりません。

このオペラにはDVDもありますが、スイトナー指揮のCDがオールスターキャストの演奏で楽しめます。プライ、マティス、アダム、フィッシャー=ディースカウ、シュライヤー、ヴェヒターといった驚くような顔合わせで、フロイラのアリアはフィッシャー=ディースカウが歌っています(Berlin Classics. BC 2156-2)。

註)
1.ヘルマン・プライ自伝『喝采の時』(メタモル出版)196頁。同書でプライは『冬の旅』の充実した解説に一章を費やし、9頁にわたるミュラーの小伝までも付している。

(2008.8.3 甲斐貴也)

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この記事へのコメント

渡辺美奈子
2008年08月03日 22:34
甲斐さん、こんばんは。今回も私見を受け入れて下さり、深謝します。甲斐さんの訳題「幻惑」は、「幻」と「惑わす」の意が表れていますね。拙稿「『冬の旅』の根底にあるもの」では「錯覚」と訳していたのですが、先頃「眩惑」に変えました。また、甲斐さんから刺激を受け、訳詩における句読点を廃し、間をあけることにしました。甲斐さんからは、訳詩や日本語表現において、数多くの示唆をいただき、感謝しています。なお、甲斐さんの弁護のために。甲斐さんが原詩の最後から2行目に使ったダッシュは、ドイツ語ではGedankenstrichで「思考の線」という意味。ミュラーがよく使う記号で、彼特有の「熟考」ないし「省察」を効果的に表現し、たとえば「おやすみ」では5度も使われています。論文ですと、甲斐さんのように、記号「―」をふたつ続けて使うのが普通です。甲斐さんは動詞を先に訳したので、思考の効果が表れたと思います。甲斐さんの訳からは、『アルフォンソとエストレッラ』における「雲娘の歌」の光景が見え、「幻惑」と二つの歌が重なって聞こえるように感じます。「罠」ということばがポイントですね。いつも素敵な訳をありがとうございます。
甲斐貴也
2008年08月04日 07:12
>渡辺美奈子さん

おはようございます。いつも好意的なコメントありがとうございます!
訳詩のタイトルや書法の影響とは大変光栄です。同じようなやり方をされる方は時折見かけますが、基本的に日本語に記号の類は出来るだけ少なくする方が、視覚的に美しく仕上がると考えています。それでも句読点の区別がわかる訳を心がけなければならないのが難しいところですが。
ダッシュの件ありがとうございます。これはハイフンで印刷されている場合が多く、短すぎて効果が薄いと思っていました。ダッシュですとちょうど良いですね。ご指摘の「おやすみ」、特に第3節の連続した3行の行末に用いられているのは意味深長ですね。さすがシューベルトは行の組み合わせを変えながらの凝った繰り返しでミュラーの真意に迫っていますね。
『アルフォンソとエストレッラ』の件も新コーナーありがとうございました。旋律の借用だけでなく、歌詞の内容も密接に関わっているという事実、わたしが読んだ限りの資料には見当たりません。また新たな発見に喜んでおります。これからもよろしくお願いいたします。
Auty
2008年08月05日 14:22
流用と言えば、バッハなんかも世俗曲と宗教曲を同じメロディで作ってたりなんかしますね。究極のリサイクル♪
甲斐貴也
2008年08月06日 12:21
>Autyさん
わたしなんかも、堅苦しい説教なんか聞いてられないけど、流行歌の替え歌の、立派な生演奏をタダで聞けるとあっちゃ、日頃の不信心もどこへやら、そうれっ!てんで教会に駆けつけるでしょうね、きっと(笑) これぞ本当の「目も綾な罠」かもしれない?
渡辺美奈子
2008年08月07日 11:23
甲斐さん、こんにちは。先日、甲斐さんの訳題「幻惑」には、「幻」と「惑わす」の意が表れていると書きましたね。その後シューベルトが『冬の旅』で、「幻惑」、「幻日」、「春の夢」(ミュラーの詩の順番で失礼)すなわち「幻」をA-dur で表現していたことを思い出し、私も「幻惑」に変更しました。ミュラーも24のツィクルスに仕上げる際に、上にあげた3編を意識的に配置していますね。
甲斐さんが私の訳題となるべく重ならないように配慮していると感じたので、私も変えなければと思ったのですが、結局甲斐さんの適切な訳題を借用することになりました。感謝します。重なっても、『冬の旅』における詩と音楽の内容を優先し、互いに作品を深く解釈してまいりましょう。それにしても『冬の旅』は大作。フィッシャー=ディースカウでさえも、「半分は理解できない」と語っていましたので、終着点はないかもしれません。10周年記念にこの作品に取り組むことができた甲斐さんに拍手します。
甲斐貴也
2008年08月07日 22:16
>渡辺美奈子さん
わたしの創案では無い訳についてわざわざお気使いありがとうございます。自分ではあまり意識せずに訳していましたが、初期の頃のはまた変えるかもしれません。ご意見ありましたらまたよろしくお願いいたします。
シューベルトが「幻」をA-durで表現したとのお説、大変興味深いです。そうなるとシューベルトが、ミュラーの追加した詩に作曲するに当たり、「幻日」のみ配置を換えたのは、それが初めからA-durと決まっていたため、前後関係を調整する必要が生じたとも考えれますね。
本当にこの作品の奥行きは底知れず、その本質を探ろうとすることは、それこそ終着点の無い旅のようにも思います。このHPが、あなたの研究の何らかのお役に立てれば、これほど嬉しいこともありません。これからもよろしくお願いいたします。
甲斐貴也
2008年08月08日 08:36
解説への追記です。

この「幻」について、極寒による低体温症の引き起こした幻覚、というリアリズム解釈も一時期試みたのですが、調べてみると、そのような幻覚症状が出る末期的段階に至ってしまっては旅の続行などまず不可能であり、その症状によって判断能力を奪われて誤まった道に入り込む例は多くあるものの、自力で墓地から引き返した所から見て、まず当てはまらないことという結論に達しました。

参考文献:
『凍る体―低体温症の恐怖』船木上総著(山と渓谷社)他
渡辺美奈子
2008年08月08日 13:54
甲斐さんの追記、興味深く拝読しました。主人公は、光が幻惑だと分かっていながら、進んで光に身を任すと語るだけの思考力があるのですから、「極寒による低体温症の引き起こした幻覚」と解すのは確かに難しいかもしれませんが、おもしろいテーゼでしたね。
その前のコメントで、甲斐さんが調について書いていましたが、おっしゃるとおり、シューベルトは「幻日」をA-dur で書くことに決めていたでしょう。シューベルトは幻や夢を扱う詩によくA-dur を選んでいますし、多種多様な調で作曲していたシューベルトが、『冬の旅』では使用する調をかなり限定していますから。「勇気を」は、ご存じのように、本来a-moll で書かれ、おそらく出版者ハスリンガーの手により、長2度下げられて、g-mollになったものですから、「幻日」との入れ替えの理由が調かどうかは、判断できないかもしれません。でもA-dur の同主調a-moll で作られた「勇気を」と「風見鶏」は、プライが別の観点から語っているように、シューベルトがそれらを幻想として表現したと解すことが可能ですね。「幻」も『冬の旅』の重要テーマのひとつ。がんばりましょう。
甲斐貴也
2008年08月12日 22:46
>渡辺美奈子さん
この件ご返事遅れまして申し訳ありませんでした。この物語、現実と幻の境界を見極めるのが難しいですね。聞えているのが本当の音なのか、見えているのが実在するものなのか、それとも隠喩として語られているだけなのか、丁寧に読み込み、考えていかないと分からなくなってしまう。
「幻惑」につきましては、まだ言い足りないこともあるのですが、とりあえず全曲の完成を優先することにします。当初とは「鬼火」の解釈が変わるなど、全部出来上がってからでないと分からない部分もありそうに思いますので。
「道標」と「旅籠屋(宿屋)」は二曲まとめて今週末更新の予定です。

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