シューベルト『冬の旅』第23曲「並んだ太陽たち」~失われた愛と誠実、あるいは信仰の象徴

並んだ太陽たち

三つの太陽が空にあるのを見て
長いことそれに目を凝らしていた
太陽たちもそこに動かずにいた
まるで僕から離れたくないように
ああ お前たちは僕の太陽じゃない
他の人の顔を見ておくれ!
ああ 確かに僕もこの間まで三つ持ってたが
飛び切り良い二つはもう沈んでしまった
三つ目も続いて沈んでくれればいい
闇の中にいる方がましだろう


Die Nebensonnen

Drei Sonnen sah ich am Himmel stehn,
Hab' lang' und fest sie angesehn.
Und sie auch standen da so stier,
Als wollten sie nicht weg von mir.
Ach, meine Sonnen seid ihr nicht,
Schaut andern doch ins Angesicht !
Ach, neulich hatt' ich auch wohl drei:
Nun sind hinab die besten zwei.
Ging' nur die dritt' erst hinterdrein,
Im Dunkeln wird mir wohler sein.

 この詩はどういうわけか4行+4行+2行で改行されているものが、内外のネット上や歌詞カードに多いようですが、ミュラーの原詩も、シューベルトの楽譜に掲載されたものも10行詩ですので誤りです。また、シューベルトによる変更が数箇所あるにもかかわらず、特に7行目頭の”Ja”を”Ach”に変更していないものが目立ちます。例によって感嘆符も4行目、9行目で省略されていますが、6行目だけは残してあるのが注目されます。詩の内容が、三つの太陽への呼びかけである中間2行を、4行づつの独白で挟んだ4+2+4の3部に分かれており、シューベルトの音楽もそれに合わせた三部形式になっているので、中間部末尾のみ感嘆符を残したのは効果的処置と言えるでしょう。そこから考えても4+4+2は不適切です。

 「並んだ太陽Nebensonne 」とは怪奇現象でもなんでもなく、本物の太陽の両側あるいは左右どちらかに幻の太陽が一つづつ水平に並んで見える、寒冷地で時折見られる気象光学現象(または大気光学現象)で、我が国では「幻日(げんじつ)」と呼ばれています。太陽高度60度以下でしか見られないため、日の出か日没時の現象とされますが、樺太と同程度という高緯度のドイツの冬では太陽高度が日中を通して非常に低い(冬至の正午で約16度)ことから、時刻にかかわらず見られることになります(そのためこの現象から時刻の推定はできません)。ミュラーの故郷デッサウを含む旧東独地域の気象条件がこの現象を起しやすいことから、日本でもそれほど珍しくはないこの現象(ネット上で「幻日」を検索すると驚くほどたくさんの写真や記事がヒットします)を、ミュラーがその目で見ていた可能性は高いと思います。

 気象光学現象としてのドイツ語Nebensonneの訳語は確かに「幻日」ですが、原語にない「幻」という漢字が混入してしまうのが、それがこの詩集の重要なキーワードのひとつだけに困ったところです。内容としては正に幻の話ではあるのですが、ミュラーがその語を用いずに表現したことも明らかです。また、本文では「三つある」とありますが、それが「並んでいる」とは書いてないので、タイトルを直訳しないと「(水平に)三つ並んだ太陽」ということがわかりません。しかも複数形になっているので、気象用語の「幻日」ではなく、直訳で「並んだ太陽たち」としてみました。

 さて、主人公が持っていたと言う「三つの太陽」とは一体何でしょうか。これについて、沈んでしまった「良い方の二つ」は第8曲「回想」に出てきた娘のふたつの瞳であり、まだ沈んでいない残りの一つは主人公の命とする渡辺美奈子さんの見解は妥当なものと思います(註1)。

 一方、三つの太陽を「信仰、愛、希望」だとする説も昔からあります。三つの太陽が象徴するものが恋人の瞳と自分の命という実体的なものだけでなく、愛や希望といった概念の象徴をも兼ねているということは、これまで見てきたこの作品の重層性から十分に考えられると思います。そこで「沈んでしまった二つ」と「残っている一つ」は何かを考えて見ましょう。

【沈んだもの/失ったもの】=2個
1.娘の愛
2.娘の誠実(裏切り=「風見」での「誠実な娘の姿を見つける」「金持ちの花嫁」、「流れの上で」での「壊れた指輪」、「烏」での「墓場までの誠実を見せてくれ」)
3.希望(「最後の希望」でそれを失う予感を、あるいは事実上失われたことを嘆いている)
4.信仰(「おやすみ」「勇気を出せ」などでの神への言及は不敬なものばかりで、しかもこの苦難の旅の中で祈ることがないことから、主人公は信仰を失っていることが推測される)

【沈んでいないもの/失っていないもの】=1個
1.娘への愛
2.娘への誠実
3.希望(「最後の希望」の詩でその象徴の葉が落ちた場面は描かれていない)
4.自分の生命

 これらを判断する上で重要なのは「この間まで三つ持っていた」、つまり話の流れの上で、失恋・娘の裏切りによって失われたものと考えられることです。すると失ったもので「愛」はまず間違いのないものとして、失恋によって「信仰」を失うというのは不自然に思われ、残るは「誠実」と「希望」ということになります。しかし「最後の希望」で描かれた希望とは、失恋によって失われたものではなく、その「失われた愛を取戻す可能性」という希望ではないでしょうか。以上から、主人公が娘に求め、一度は得ながら失ったのは「愛」と「誠実」であると考えることができると思います(註2)。

 次に「沈んでいないもの」ですが、「彼女への愛」と「彼女への誠実」のどちらかひとつを取るのは考えられず、「希望」がまだあるとも思われず、それがなくなればいいと願うのも不自然です。そうなるとわたしには「自分の生命」以外に思いつくものがありません。これなら1,2,3を含むものとも考えられます。

そこで、主人公が持っていたと言う「三つの太陽」のうち、いまだ沈んでいないのが自分の生命、今は沈んでしまった「良い方の二つ」とは、失われた恋人の輝く瞳の象徴であり、それは愛と誠実の象徴でもある、としたいと思います。考えてみれば、「恋人の輝く瞳」が「愛と誠実の象徴」であるのも当たり前のことではあります。

 しかし、歌詞だけでなくシューベルトの音楽を含めて考えると、違うものも見えてきます。「ああ、お前たちは僕の太陽じゃない 他の人の顔を見ておくれ!」を中間部として三部に別れる第一部と第三部では、ピアノと歌がほぼ同一の旋律で進み、「烏」のように、太陽が主人公に寄り添っている情景が描かれています。渡辺美奈子さんは、「オルガンが歌を先導し、歌に伴うような聖歌の響き」と評しておられますが、全編を通じて一度たりとも神に祈ることのない主人公に代わって、シューベルトが音楽で祈るようでもあります。「旅籠」でのあの音楽の意味もそこにあるのかもしれず、シューベルトは失われた二つの太陽を「愛と信仰」と解釈しており、この救われない若者のために祈りの音楽を書いたと考えることも出来るでしょう。もしそうであるなら、ミュラーの詩集とシューベルトの歌曲集の性格の違いは、信仰の有無にあると言えるかも知れません。

 前曲「勇気を出せ」での無理矢理の昂揚も力尽き、立ち止まって太陽とその幻を眺め、死に憧れる主人公。彼にこの旅を続ける気力は残されているのでしょうか。次の終曲「ライアー弾き」で、主人公の眼差しは自らの苦悩から、この物語で初めて具体的に描かれる他者に向けられます。

註):
1.渡辺美奈子「『冬の旅』の根底にあるもの――ヴィルヘルム・ミュラーのベルリン、ブリュッセル時代――」 『ゲーテ年鑑』第48巻所収 (日本ゲーテ協会)より94、97頁
2.渡辺美奈子 Die Nebensonnen 幻日 ヴィルヘルム・ミュラー(1823)
http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/dienebensonnen.htm

参考HP:
・渡辺美奈子「ヴィルヘルム・ミュラーの詩における天体と瞳」2008
http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/augen.htm
・「幻日」 ウィキペディア(日本語)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E6%97%A5
・Nebensonne ウィキペディア(ドイツ語)
http://de.wikipedia.org/wiki/Nebensonne
・空の輝き:空と太陽に関わる現象(気象光学現象)
http://homepage3.nifty.com/ueyama/sky2/sky.html#genjitsu
・星空@ドイツの気象状況
http://www.hoshizora.de/file/klima/wetter.htm
※1800~20年頃のヨーロッパは、この現代の気象状況よりかなり寒かったとされる。
参考文献:『夏が来なかった時代』桜井邦明(吉川弘文館)

(2008.9.2 甲斐貴也)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

渡辺美奈子
2008年09月03日 08:34
甲斐貴也さん、拙稿と私見に数多く同意してくださり、嬉しく思います。またこのたびは、私の「幻日」のページに関し、大気光学現象や文章表現に関し、鋭いご指摘と的確な助言をたくさんいただきました。感謝します。すでに2005年3月、この詩に関する学会発表をしていたのですが、今回あなたとのやりとりを通し、いろいろと学ぶところがありました。今は一部しか公にできませんが、後日必ず研究に活かします。
 甲斐さんの訳、まず「並んだ太陽たち」というタイトルに、ドイツ語原題の響きが残り、改訳を重ねるうちに次第にミュラーの原詩と、彼の詩の特徴である3部分構成が明白になってきて、10行にこめられた詩人の思いを熱く伝ていますね。
解説では、天体が愛する人の眼を象徴し、詩句が複層的な意味を持つというミュラーの特徴、シューベルトは詩人の意図を汲んだ上で自らの感情移入をし、詩に別の色合いを与えるという、ふたりの詩と音楽における本質に迫る内容だと思います。考察もわかりやすい説明で、恐れ入りました。素晴らしいですね。
誠実な旅の杖にすがりながら、私も長い冬の旅を続けます。励まし合いながら、謙虚に歩んでいきましょう。
甲斐貴也
2008年09月03日 12:36
>渡辺美奈子さん
コメントありがとうございます。
今回も多くの助言をいただき、本当にありがとうございました。このやりとりであなたのお役に立つことがあったのなら大変光栄に思います。拙訳へのご高評恐縮です。この作品の重層性や象徴性は、あなたにご教示いただかなければここまで理解することは出来ませんでした。あと1曲、「ライアー弾き」に取り掛かったところですが、ここに来てようやく全曲の全体像が見えてきた思いです。全曲の訳が完了しても、この探求の旅が終わることはないでしょう。これからもよろしくお願いします。
さすらい人
2008年09月04日 01:23
この曲、シューベルトがミュラーの配置とは変えているわけですが、

>前曲「勇気を出せ」での無理矢理の昂揚も力尽き、立ち止まって太陽とその幻を眺め、死に憧れる主人公。

というのが作曲者の意図だったのでしょうか?

私自身の考えがなくて、質問だけでもうしわけないのですが。
甲斐貴也
2008年09月04日 08:57
>さすらい人さんおはようございます。それは完全な私見です。それをもっとわかりやすくするべきでしたね。修正を考えてみます。

わたしはここで配置を換えたのは適切だったと思いますが、解釈はともかく、この配置換えについてはいかがお考えですか。
ken
2008年09月04日 09:29
幻日
空には凍る霧が流れて…なのですね

あと、「神に挑む」という信仰の、あるいは神というあなたと我…との対峙という信仰の形もあるのかもしれません
甲斐貴也
2008年09月04日 22:26
詩的なコメントありがとうございます!

そうですね、この主人公、神に色々いちゃもんつけるところを見ると、本当の無神論者とかではなく、逆に強く意識しているのでしょうね。このあたりの問題は訳詩の完成とは別に、もっと時間をかけて考えて行きたいと思います。
辻森雅俊
2008年09月06日 14:57
おかげさまでご紹介のサイトで幻日の写真などを興味深く見ました。そこで素朴な質問が生まれてしまいました。プリズム現象で生じる太陽は多くは<幻>のようでもあり、詩には表現されていないが、色合いの問題も隠れているのではないだろうかしら、と。例の革命の三色を思い出してしまったわけです。その意味では、幻という漢字も別の意味で興味深いかもしれないと。あるいはそうではなくて、ミュラーの詩った太陽たちはもっとはっきりとした姿で居並んでいたのかしら、など。疑問がむくむくです。
辻森雅俊
2008年09月06日 15:05
併せて別の感想を書きます。渡辺さんがおっしゃってますように、私もこの曲を聴くといつも「なぜこのように厳かな、聴き様によれば賛歌にも聴こえるような曲想をなぜシューベルトはこの詩で思いついたのかしら」と、不思議な想いにかられます。そしてもっと不思議なことに、辻音楽師が次に登場するわけですし……。
甲斐貴也
2008年09月08日 18:38
>辻森さん
なるほど、幻日に革命の三色、これは興味深い新解釈ですね! その並び方など、視覚的に想像力をかきたてられますね。
全く以って、この音楽は不思議です。ミュラーの詩を読み解くのに、時にミュラーの他の詩作品を検討することが有用なように、シューベルトの晩年の他の作品との比較も必要と考えられますね。「辻音楽師」は来週掲載予定です。

新アドレスお決まりでしたらメール頂けますでしょうか。
甲斐貴也
2008年09月08日 18:44
解説に書きました、ミュラーの"Ja"をシューベルトが"Ach"に直したのを反映していないテキストが出回っている件、川村英司先生のHPの記述により、ペータース版と旧全集版がそうなっていることがわかりました。確認したところ、前者はフィッシャー=ディースカウ校訂の最新版でも"Ja"なので、意図的なことと考えられます。
・声楽家 川村英司
http://www.ne.jp/asahi/bariton/eishi-
kawamura/
http://www.ne.jp/asahi/bariton/eishi-kawamura/lecture.02-03/winterreise4-2.html
辻森雅俊
2008年09月09日 01:32
幻日と三色の連想は、全くのお遊びの発想です。しかしこの曲はおそらく謎の隠喩にすることがミュラーのねらいであったと思います。ミュラーはそれを確信犯的にやっているとしか思えない。象徴派の詩人ではないのですから。ですから、あとはどう連想するかはお好きなように!なのではないでしょうか。ただし、シューベルトは全くその詩を見事に、そう、とても見事に変容させたと考えていいのではないでしょうか。最終曲の御論を楽しみにしております。
辻森雅俊
2008年09月11日 18:04
別のおかしな連想が生まれました。『冬の旅』に登場する烏ですが、烏はアポローンの聖鳥でありますが、ギリシャ神話のコローニスの物語で烏はもともと輝く白い鳥だったという有名な物語だけではなく、太陽神と烏の関係や、『捜神記』の「烏者棲太陽之精」等など、<象徴的>には、幻日の太陽とも連動しているのでは?
以上、得意の夢想でした。
甲斐貴也
2008年09月12日 08:40
>辻森雅俊さん
おはようございます。白い鳥が黒くなる逆ですね。太陽神と言うとヒュペーリオン、ギリシャを題材にしたヘルダーリンが思い浮かびますが、十九世紀当時無名であったことからまず関係ないでしょうね。
辻森雅俊
2008年09月12日 18:04
夢想にお付き合い有難うございます。ヘルダーリンのことはよく知らないので申し訳ありませんが、私の夢想は彼が無名であったことにはめげません。『捜神記』のことなどシューベルトもミュラーも当然知らないのですし。ギリシャのミュラーもコローニスのことなどさえ一顧だにしていなかったかもしれませんもの。私の夢想は続きます。いわば、夢想・酷使であります。
信楽八希
2016年04月02日 05:36
散策中に偶然見つけてしまいました。
幻の太陽の詩ですが、私も、「三つ並んだ太陽のうち二つはもう沈んでしまった。残りの一つも早くなくなってしまえ」という詩句に、(フランスの隣の国から見た)自由・平等・博愛への期待と失望が反映しているのではないかと思ったことがありました。理由は、第一曲で「娘は愛を語り、母は結婚を語るも、師匠の下(古い生き方)から飛び出す」あたに自由への期待感を、しかし、菩提樹の脇で帽子を失って(放送大学で笠原先生の西洋音楽史に出ていた話で、帽子は当時、身分証明の機能をもっていた)社会から疎外され、幻の太陽の曲までに、自由・平等どころか周囲から全く孤立してしまう。あとは博愛にすがるしかないが、・・・、この冬の旅は、主人公が辻音楽師に共感するところで終わっています。
詩の事情というより、作曲者の意図があったのかも、という話です。突然の乱入、ご容赦ください・・

この記事へのトラックバック